12月17日清滝神社の正月準備が終わりました |
12月2日 例年の幣きりがありました。 |
早稲田大学 湧水町出身の「永山博基」選手箱根駅伝7区で3日に登場。 21.3km 3位ごくろうさまでした。 |
1月1日 愛宕神社にて。 |
鬼火焚き1月6日 7歳の子供さんが着火しました。 中津川の谷間に孟宗竹の破裂音が響き渡りました。 |
12月10日、湧水町商工観光課の吉松駅お茶のサービスに合わせ、SLの所でボランテアガイドをしました。 |
肥薩線大畑駅で列車が空転、伊三郎号の到着が遅れました。雨、木の葉で滑ったのか?現場は25パーミルの勾配です。 |
香港の人も訪問です。「一路平安」のプラカードで歓迎。 |
都城出身の中年の女性、汽笛を自分で鳴らし、亡くなった父親の機関士姿を思い出し、涙されていました。 もらい泣きをしそうでした。 |
東京の高校生がSLを訪問しました。 |
10月10日魚野より霧島連山、雲海、みちびき4号機を撮影 種子島より発射されたロケットの航跡が薄く見えます。(赤丸内) |
吉松出身の村岡氏がえびの市長に再選されました |
大型テレビを取り付け中です。 |
丸山三男さんが四枝の踏切横に、新しい事務所を建てました。 その一部の掲載許可を頂きました。 「敬天愛人」の書、社長の人柄があふれている事務所です。。 |
和牛日本一に鶴丸の前田格男さんが選ばれました。 おばあさん牛9歳、娘牛5歳、孫娘牛3歳 3代の優秀な牛が凱旋しました。 写真はいずれも娘牛の画像です。 宮崎を抑え、鹿児島県のいや、湧水町の誇りです。 |
4部落太鼓踊り 久木元茂様代表で、南方神社に奉納されました。 写真は観光列車が到着時のSL会館前で披露 |
終戦混乱期の悲劇 |
終戦後72年が過ぎました。 昭和20年8月22日肥薩線、第2山神トンネルで悲惨な事故がありました。 終戦7日後、混乱の中で南九州に配属された多くの兵士が、ここ小さな温泉町吉松に故郷に帰る為、約3万人が集結、列車は満員の復員兵士を載せて、吉松駅をD51機関車2両で牽引出発したが、肥薩線真幸駅の2つ手前の山神第2トンネル内で、空転し立ち往生、窒息を恐れた機関士が列車後退させた。 線路に降りて退避していた乗客を次々に巻き込み56人が亡くなった。 負傷した人の数は記録がないが、戦争で生き延びた人達が、故郷を目の前にして、海軍兵42名、陸軍兵13名、民間人1名が亡くなった。 内、海軍飛行兵が21名もいるが、特別攻撃要員だったのではないか。 56名の名簿も、吉松駅から救援列車が出、地区の人達も駆けつけ救助したと、吉松出身の新聞記者黒木正彦さんの記事にありました。 今年も、自衛隊えびの駐屯地の人たちを含め、草刈りなどもして、約40名の方が20日供養祭に参加した。 |
8月11日 山の日に山に囲まれた湧水町吉松体育館前で16時から21時まで「空夢音楽会inよしまつ」が 有名なドラマー田口耕郎氏・ギタリスト早川成行氏をゲストに実行委員長古川玲子氏で盛大に行われました。 |
古川さん ご苦労様でした。 |
中津川老人会と吉松幼稚園児とのふれあいで、子供たちに元気をもらいました。 |
水鉄砲で遊びました。 |
笹船を作り、うちわで走らせました。 |
おはじき遊び・ただ今13名、待機児童はおりません。 |
園の庭の木の教材とお手玉遊び |
5月19日・国鉄の旗、駅長の日誌を見つけました。 |
4月24日 1年に1回の丸池清掃を、ボランテアの若者が行いました。 栗野小学校の5年生が、野外勉強会で池の生き物を勉強しました。 |
藻が無くなり、とてもきれいになりました。 |
役場、商工観光課、三堂課長作成の勉強資料です。 池に住む植物、生き物の勉強をしました。 |
4月14日10時50分吉松駅集合 頑張ろう熊本を「隼人の風、伊三郎新平号」到着ホームでやりました。手旗とSLの汽笛で歓迎しました。 |
朝鮮のハス、里帰りなるか? (湧水町生涯学習課にて発掘終わる) 蓮が植えられた池がありました。 調査結果報告をします。 |
まずやぶを払い、清掃しました。 |
表土を剥ぎ取り、発掘開始 |
土手の保護石積と池淵の石らしき物が現われました。 真ん中の未発掘部は地層を調べる為、最後に取り除きました。 |
杉の木を切り、発掘場所を広げました。池の前面石の並びがわかります。 3月21日撮影 |
池の輪郭が見えてきました。 池の床面を掘り下げてみました。 |
池の床面に「五輪塔」の一部らしい丸い穴の開いた石物が見えました。 木の根、竹の根が多く発掘は大変です。 3月22日撮影 |
ポンプで水を抜きます。 |
杉の根を切り取りました。 |
池の右端発掘現場よりまだ広がり約20mはありそうです。3月24日撮影 |
3月27日撮影・4月4日さらに南に5m拡げました。 |
3月28日蓮の実らしい物を発掘 友人が持参した蓮の実と比べてみました。 |
右側シートは池底の泥 |
泥さらい |
陶片・蓮の実? |
スモモ・梅・栗・椿? 杉・檜・竹杭・木片? |
3月30日撮影分・ 最終作業は4月5日に終わりました。 |
作業を指導された新東晃一先生は、蓮の発芽は他の専門家にお願いするとの事でした。 蓮が再生されるか楽しみです。 |
昔に思いをはせながら作業しました。 ご苦労様でした。 福城山徳元寺跡(ふくじょうさんとくげんじあと) 徳元寺(とくげんじ) (栗野町史を参考にして) 現在の心光寺の南隣り付近にあったといわれています。 古文書などには、『応永(おうえい)十三年十月三日(1406年)伊豆守(いずのかみ)酒井親貞、その亡父正広禅定門(ぜんじょうもん)の為に建立して崇寿寺(そうじゅじ)といふ。』とあります。酒井氏は鎌倉時代から栗野院と関係があり、同院の在地領主の一人であったと思われます。 その後北原氏(の菩提所となり徳重寺と寺号(じごう)が変わりましたが、義弘の第五子久四郎(きゅうしろう)の菩提所となり、徳元寺と改められました。 以来江戸の末期まで栗野郷の中心寺院として崇敬されていましたが、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、寺院はもとより仏像・古文書など全てが失われました。 今では心光寺(しんこうじ)の裏手に、歴代住持の墓が数基あるだけです。 義弘公は朝鮮から「千葉蓮」を持ち帰り、池に植えたと古文書にはありますが、現在では池も蓮もありません。 聞くところでは、この蓮は後に鶴丸城の堀に移され、現在ではそこで花を咲かせているということです。 朝鮮種の蓮 当寺の池に植ゆ。千葉蓮といふ。松齢公征韓(しょうれいこうせいかん)の役に彼国(かのくに)より携(たずさ)へ帰(かえ)り、当寺(とうじ)の池(いけ)に植(う)ゑ玉(たま)ふ。今(いま)に至(いたっ)て存(ぞん)ず。 又本府(またほんぷ)にも分(わか)ち移(うつ)さる。 世俗(せぞく)に徳元寺蓮(とくげんじはす)と称(しょう)す。 |
観光協会(栗野駅)でおいしいお菓子が販売されていました。(378円) |
25日は雨の中、役場職員の方、提灯の設置、ご苦労様でした。 詳細は下記へ http://yusuimarche.chesuto.jp/c48145.html へのリンク |
ストリートピアノプロジェクト 3月12日設置される。 ご自宅に眠っているアップライトピアノをもらい受け、地元の中・高校生にペイントして頂き、商店街や集客施設に常設し、まちにコミニュニケーションを巻き起こすプロジエクトです。 栗野駅は湧水を表し、吉松駅は列車とパラグライダーの絵が書いてありました。 いずれも待合室に有ります。 立ち寄られたらぜひ演奏を。 |
福祉アドバイザー研修会が2月19日中津川公民館でありました。 非常炊き出しの実演と消防車の紹介でした。 タンク車は2000リットルの水を搭載しています。 3000万円して、消防団でタンク車を持っているのは、喜入の石油備蓄地区とこの中津川消防団だけだそうです。 防衛庁の補助事業で購入しました。 |
特殊なビニール袋に、米1合と同じ量の水を入れて作りました。 |
吉岡ガイド員が12月18日 吉松駅前で案内しました。香港の方にも。 |
11月14(土)15(日)鹿児島アリーナで、湧水町停車場の大崩さんが「竹細工」で出展されました。 |
写真は大崩さんのお父さんと、若いころの大崩さんです。 |
湧水町広報の入手について、140円切手を角2サイズの封筒に貼り、 役場総務課に12枚送ると、折りたたまない広報ゆうすいが 1年間送られてきますよ。 役場ホームページでも覗けます。 |
湧水町ホームページはここをクリックして、バックナンバーPDF版で 「広報ゆうすい」を見て下さい。 |