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中村 聡(なかむら さとし)
昭和33年4月29日、医師中村勲氏の三男として、鹿児島市で誕生
鹿児島中央高校から、東北歯科大学歯学部を卒業し、宮崎医科大学医学部歯科口腔外科を経て、昭和59年12月父が開業した現在の吉松で、平成2年より引継ぎ、地域歯科医療に従事、現在に至る。
家族は鹿児島市に妻、2男、1女、犬2匹在住、兄孝氏も鹿児島市で歯科医療を営む
趣味は月に2〜3回、ゴルフ、剣道(5段)に汗を流している。

   患者さんの新聞投稿文が待合室にあり、中村先生ご本人の了解を頂きましたのでご紹介します。
鹿児島新報の「新報随想」より転記
入れ歯    星 惠示
高校、大学とラグビーをやっていた。ゴルフ同様、紳士のスポーツという。高校でラグビーを覚え、大学へ。
当時は食糧難で少年の腹を満たすことははなかった。大学ではラグビーをするつもりはなかったが、美味いものを食わせるとか白いご飯食べ放題などの甘言にのってラグビー部へ一直線。
何年も口にしたことのない白いご飯と生卵がおいてあった。
この誘惑に勝てる奴は目も鼻も無い奴とばかりに山盛りの白いご飯に生卵をかけて食べて、いや、食ってしまつた。
悪魔に魂を売った奴は3人。ちやほやされて明日からの練習時間に送れないようにとの優しい言葉に送られ、「幸せだなぁ」などと後年流行った歌の文句のような気持ちで嬉々として家に帰った。
翌日、優しいお兄さんのようだった入部勧誘した先輩部員はそこに存在していなかった。
まるで鬼のような形相の、昨日の優しかったはずの先輩がそこにいた。
最初の一言は「昨日のあの飯を食った奴はこの世の中でお前達だけだ」あの飯を食ったからには退部脱走両方とも無いと思え!と宣言されて震え上がったのを覚えてている。
その後二日間で失った歯は上6本下4本計10本。入部2日での出来事。先輩曰く、これでお前達も一人前だ。白い飯を食ったお蔭で、1週間何も口に入らなかった。痛みが取れた瞬間、いつか見ていろあいつを殺してやるなどと物騒なことを言ったばかりに、それが本人の耳に入りさらにひどい目にあったのを憶えている。
だれかしゃべったのにだれもしゃべってないと言う人間不信に陥ったと同時に、人の口には戸を立てられないということも悟った。
いずれにしても歯が無いので入れ歯を入れるしかない。この時から入れ歯との戦いが始まった。
若干18歳のことだった。
その後50年余は入れ歯と喧嘩したり仲良くしたりが続いたが、1昨年、なんと入れ歯を作ったその瞬間からぴったりフィットする入れ歯に出会った。
わが人生で最高の歯科医師との出会いである。長い間の入れ歯との闘いはいかにフィットさせるかにあり、口に入れてもどこかしらにあたり、痛くて強く噛むことが出来ない。
そこで歯科医に何回も足を運び調整してもらっていたが、それでも上手くいかず自分で機械を買い込み削ったりもした。そんな入れ歯との闘いがなんと40年近く続いて、きっと死ぬまで続くのだろうと思っていたが、友人の息子さんに歯科医がいるというのでお願いしたところ、見事な出来映えの入れ歯を入手することができた。
好きな食べ物も食べれるし、講演でも何不自由なく話ができるようになった。
湧水町の中村歯科医院の中村聡先生ありがとう。

星 恵示(ほし けいじ)さん 昭和6年 神奈川県生まれ、メリーランド大学院卒、マイヤミ大学で生科学を専攻・日本魚学会会員・愛媛大学農学部客員教授・理学博士・霧島市牧園の「ほし」のオーナー (中村先生の話では、星先生は亡くなったとのことでした。)

中村医師は、湧水町中津川で持ち前の明るくさっぱりした性格と、高い技術、親切丁寧な医療で、多くの患者さんに慕われています。
地域の医療を支える人として、益々お元気で、医業をされることを願ってやみません。
中村歯科医院
住所 鹿児島県姶良郡湧水町中津川901
電話0995−75−2117