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竹中 清美さん
大正13年3月川添、湧水の湧く竹中池のほとりに農家の一人息子として生まれる。
青年学校を14歳で卒業、国鉄の庫内手で機関区に就職。
15歳で直方機関区機関助手、18歳で熊本機関区機関手、昭和20年北九州の鉄道隊に入隊。
昭和20年8月熊本機関区へ復職。
昭和24年大阪鉄道教習所で専門部(大学科程)卒業。
昭和32年鹿児島鉄道管理局 課員1級。
昭和46年出水機関区長、昭和48年都城機関区長。
昭和51年鹿児島鉄道管理局保安課長。
昭和54年退職。鉄道産業鞄社
昭和62年鉄道産業(株)退職。
昭和62年日本鉄道OB会 吉松分会長。
平成17年4月 瑞宝双光章叙勲(旧国鉄鹿児島鉄道管理局保安課長)
現在に至る。

   肥薩線100周年記念に文があり、ご本人の了解を頂きましたのでご紹介します。

吉松駅と私
 私は、吉松駅から南東の栗野岳の麓、年間を通じ水温15〜16度の湧水できれいな竹中池のほとりで生まれた。
昭和の初め、まだ舗装されていないバラス(
砂利)の国道を、3キロ離れた吉松尋常高等小学校へ着物姿で布製のカバンを肩にかけ、素足かわらじで通学していた。
 当時、吉松駅近くの鉄道職員官舎の子供は、洋服で革のランドセルを背負い、靴をはいて学校に通ってきた。昼食になると、官舎の子供の弁当は、白米のご飯のほかに、もうひとつ、別の小さなおかずの入った箱があった。
そのおかずの箱の中に、とても美味しそうな色のついた、スルメ・コンブ・小魚のつくだにをよく見かけた。
 一方、私はアルミの弁当箱に麦飯か、時にはからいもめしを詰め、その真中に梅干しと大根漬けを
2〜3切れのせた、
いわゆる日の丸弁当だった。
 或る日、官舎の子供のおかずを少し貰って食べてみた事があった。それはそれは、とても甘く美味しい味がした。
官舎の子供に尋ねると、これは鉄道職員の人や家族だけの
購買という所で売っていると聞かされた。その時私は、鉄道職員になって、こんな美味しいつくだにを是非食べてみたい
と思った。
 その頃は、満州事変や支那事変のため、吉松駅から兵隊が時々列車で出征した。私たち小学生も小さな日の丸の旗を持って線路わきにそれぞれ列をなして、並んで見送った。
蒸気機関車に引かれた木製の各車の窓から、出征兵士達は旗などを大きく左右に振りながら、叫んでいるようだった。
列車は汽笛とともに黒煙をあげ、機関車の先端付近から、シュツ・シュツと白い蒸気を噴き出し、音を響かせながら、日の丸の小旗をうち振り、歓呼の声をあげる私たちの目の前を通り過ぎてゆく。
そのダイナミックな機関車の運転室に、きりっと 帽子のあごひもを締めた青い制服の機関士の姿が、勇ましく頼もしく私の目と心に強烈に映った。私は
よし、学校を早く卒業して、あの機関士になろう!と自分に強く言い聞かせた。出征兵士を見送って、線路のそばに落ちている小さな石炭ガラを拾っては、友達のイガグリ頭にこすりつけて、痛いほど頭の毛を引っ張り合いをした。
あの いたずらの 思い出は、今も忘れない記憶である。
 昭和14年、小学校を卒業して鉄道の採用試験を受けた。私は片田舎の農家のひとり息子である。
父母はきっと農業を継がせたかっただろうが、私は父母に内緒に受験したのである。
14年7月、国鉄採用合格の通知が届いた。そして、吉松駅から薩摩大口機関支区(当時は機関車駐泊所と言っていた)へ旅立つ日が来た。
初夏の暑い日、父は、ふとん袋と日用品の詰まった柳行李を手車に積んで、青い稲田の続く道を黙って吉松駅まで運んで見送ってくれた。あの時の情景を忘れることはできない。今にして、その時の父の心中を察するとき、親不孝の念が残って仕方ない。亡き父と母にただただ合掌するのみである。
 国鉄に就職してから
日本一の機関士になろうという少年の頃からの、夢と希望は片時も忘れることはしなかった。
そして在職40年、吉松を振り出しに、九州では直方・熊本・人吉・出水・都城・宮崎・鹿児島など、さらに関東・関西を転々と30回の転勤転居を重ねた。
その間、国鉄の最高学府まで行かせてもらい、各形式のSLディーゼルカーで多くの線区で春夏秋冬の風情を満喫しながら運転ができた事は、私の本懐である。
これは決して自慢ではない。ひたすらに平凡な夢を追ったに過ぎない。勿論、公私にわたり良き先輩や友にめぐり会えた事は幸いだった。
 国鉄退職と同時にうさぎ追いし故郷に帰り、吉松駅で国鉄関連の会社に勤めた。
その後、鉄道のOB会を手伝いながら、ボランティアで駅前の清掃美化などで駅を訪れては昔日を想いなつかしむ。
 吉松駅といえば、もう一つ付け加えなければならない事がある。
それは愛妻の事である。妻は、私と結婚するまでは吉松駅の電話交換手であった。
戦時中のため、駅の男子職員は戦地にかりたてられたために、女子職員が出札・改札は勿論、車掌の業務や
てつの取り扱いまで従事したことなど、よく話していた。
その妻も、私と結婚して転々と生活することとなった。
私が国鉄業務に専念できたのも、良き伴侶を得て内助の功があったお蔭である。
妻は20年前、病気の為先立ったが、感謝の気持ちでいっぱいである。
 時折、子供や孫たちが大阪や福岡から帰省してくる。
よく駅の公園にあるSLを見に行き、機関車に触れ昔話を続ける。
そして郷愁にひたる、80(
現在88)歳老兵の昨今である。
 
吉松駅はわたしの人生の出発駅であり、また思い出いっぱいの心の駅でもある。


竹中さんは、今でも全国に国鉄関係の友人、知人が多く、年賀状がとても多いと聞いています。
国鉄の町「吉松」を代表する人として、益々お元気で、OB活動をされることを願ってやみません。
平成17年には瑞宝双光章を叙勲される。