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黒木 正彦さん
川西の農家六人兄弟の長男、満鉄の給費生、満州国立ハルピン学院卒、終戦三ヶ月前に入隊、シベリヤの収容所に四年、帰り農業十年、鹿児島新報で論説委員長、鹿児島県社会教育課参事、県職を退職後吉松町の教育長、生涯学習大学、生涯学習町民大学院を開催される。
「湧水寺小屋塾」は今でも活動中ですが、その創始者でまず自宅から始められたそうです。
つつはの郷土研究会員

   つつはの郷土研究会  機関紙三五号二月発行に文があり、ご本人の了解を頂きましたので紹介します。

今も心に残るシベリヤのカナサークル
表が緑色の一枚のハガキを、机の中に保存している。
コムソモルスクから北上したドキー地区411収容所から、故郷の父親に出したハガキだ。
原始林の伐採と道路建設作業のなかで三年目(昭和二十三年)の春、便りを出すことが許され、全員に一枚ずつ往復ハガキが配られた。
三ヶ月したら返事が届くとの説明だった。
この時、「おれはハガキを出せない」という兵士がいた。
調べて見ると山、川、水程度しか書けない者が二十五人、カタカナが書けない者が十五人いることがわかった。
日本の軍隊には、文字の書けない者は一人もいないと、信じていただけに大変な驚きだった。
みんなで話し合って、勉強しようということになった。
文字の書けない者をカナサークル一部とし、 山、川、水程度が書ける者を二部として、「カナサークル」をつくった。
二部は小学校の教師をしていた兵士が、私は一部を担当した。
食堂から食料の紙袋をもらい、小さく切ってノートを作り、広い紙に「アイウエオ」を大きく書いて、黒板代わりにした。
労働のあと疲れた体をむち打つようにして、鉛筆も譲り合って書いた姿を今も忘れる事は出来ない。
三ヶ月後に父から返事が届いた。
「イマイネカリノマツサイチュウデス」
このとき一人の兵士が、ハガキを手にして大声で泣き出した。
号泣だつた。
カタカナしか許されなかったので、返事のハガキもカナ書きだった。
「ゲンキデイルコトガワカッテ、ハハワヨロコンデイル。
コノテガミモ トモダチニカイテモラッタノダロウガ、マズシクテ オマエヲ ガッコウニイカセルコトガデキズ、スマナカッタト オモッテイル。
ユルシテオクレ」と書かれていた。
母親の心情を読み取り、少年期からの苦労の思いが吹きあがってきたことからの号泣だった。
取り囲んだ仲間たちも、帰国がままならぬ抑留の身ということもあって、みんなもらい泣きした。
清らかで心からの人間の涙だった。
一人の兵士が「おまえは字が読めたじゃないか。
その事で、お母さんの気持ちがよくわかったじやないか。
今度は、シベリアで字を学んで書けるようになった。
あのハガキは、自分で書いたのだと便りを出せ」となぐさめ励ました。
泣きじゃくりながら「うんうん」と言ったあの姿が鮮明に浮かび上がってくる。
零下四〇度、五〇度、厳しいシベリアの抑留生活をくぐりぬけて、やっとの思いで帰国できたが、収容所でのカナサークルは、仲間たちといっしょに学び合った、ただ一つの良いこととして、今も心に深く残っている。

この「つつはの郷土研究会」誌の投稿文を読みながら、涙が出てきました。
明日をも知れぬ過酷な労働の中、いつ自分も死ぬかもわからない環境なのに、良く「カナサークル」が出来たと思います。
生死を共にした、戦友仲間意識が強かつたのですね。
氏は上京する機会があるごとに、靖国神社の戦友に逢いにいかれるそうです。
その他の投稿にも「軍律厳しい兵営生活にも心があった」の回想文がありました。
黒木さんは、療養中でしたが、残念ながら平成25年1月31日亡くなりました。
吉松の教育会に大変尽力されました。
御冥福をお祈りいたします。