肥薩線
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明治42年11月開通記念鹿児島駅
 
肥薩線が鹿児島本線だった。吉松駅が日豊本線だった頃の路線図
 
 
路線の決定 山間線と海岸線の争い
 なぜ平地の多い海岸線沿いを選ばず、難工事の山間線に決めたのか。 
熊本県、宮崎県の誘致運動もあったが、当時日清、日露関係が懸念される状況下であり、
最終的に陸軍からの意向で、艦砲射撃を
 受けないこの路線に決まった。
 明治34年鹿児島⇔国分(現隼人)間が完成、明治36年吉松まで開通、明治42年人吉まで開通、
これで門司まで全通した。
 途中、明治37年日露戦争の為、工事が中断した。
 鹿児島から、門司までの所要時間は13時間。
 関門海峡は、連絡船でつなぎ、青森までの
日本縦貫鉄道が完成した。
 これは明治政府の、威信をかけた偉業であった。
 

 
川線、山線
 川線と呼ばれたのは、八代人吉間で球磨川沿いであった為。
 山線は人吉・吉松間で、
スイッチバック、ループ線、急勾配、トンネルが多かったのでそう言われた。
 
球磨川第一鉄橋 の工事 アメリカの規格で建設
 
4110型
機関車の動輪の軸数でC型とかD型と言いますが、動輪の軸が5つの機関車が肥薩線にいました。
(E10型、4110型)
3番目の動輪はフランジがありません。
急勾配線専用ですが急カーブに弱かったとの話があります。
 
矢岳第一トンネル
 全長2096メートル・当時九州で2番目の長さであり、矢岳側の高い方から工事を始めた。
 (通常海底トンネルを除き、両側から堀り、真中を一番高くして、水が両側に流れ出るように
工事をするが、あまりにも高低差が大きく
 そんな余裕はなく、高地である上側から掘り続けた。)
 湧水と落盤の難工事で、湧水でトンネルが水没するので発電所まで作り、排水モーターポンプを
設置、レンガ工場まで作った。
 青函トンネルの開通と同じ、世紀の開通とも言われている。
25パーミルの勾配トンネル、殉職者14名。
 
工事人不足で、朝鮮人や中国人の労働者を使役した暗い歴史もあります。
 
肥薩線の最大勾配は30.3パーミルであったが、この距離は短い。
 
(パーミルとは、鉄道用語 1000メートル進む中の上下勾配を表す、
ここでは30.3メートルの勾配である。)
いさぶろう、しんぺい号の名前の由来
 矢岳第一トンネルの人吉寄り(下り線)の入り口に逓信大臣 山縣伊三郎の筆による
「天険若夷(てんけんじゃくい)」、
 「天険、夷(い)の若(ごと)し」    
 (肥薩の険しい難所を平地のようにした)。

 吉松寄りの(上り線)入り口に、鉄道院総裁 後藤新平の筆による「引重致遠(いんじゅうちえん)」
の額が掲げられたことから
 「重きを引きいて遠きに致(ち)す」 
  (重い物を引いて遠くへ運ぶことが出来る)。
 
山縣伊三郎の書いた額に向かって走る列車(人吉から吉松方面)を「いさぶろう号」、逆に後藤の
書いた額のほうに向かって
 走る列車(吉松から人吉方面)を「しんぺい号」と名づけたそうです。 
トンネルに石額のある例は、もう1ヶ所ありました
鹿児島市の「城山トンネル」です。鹿児島側が西郷さんの「敬天愛人」と鹿児島中央駅側が
大久保利通の「為政清明」
(意味は政治をするには、潔白で隠し事があってはいけない)の文字が刻まれています。。
 
 大畑(おこば)駅のスイッチバックとループ線
 
 真幸駅のスイッチバック
 
 
日本三大車窓
 国鉄が決めた3ヶ所中の1ヶ所です。
 長野県と北海道であるが、北海道は廃線となっています。

 加久藤カルデラと霧島連山が広がり、遠く桜島が見える時もあります。
現場に列車が停車し、線路わきに案内板があります。
 
山神第2トンネルの悲劇
 S字カーブの25パーミル勾配トンネルである。
 事故は昭和20年8月22日に発生した。8月28日には、関門トンネル封鎖の流言飛語が飛び交い
 混乱した状況であった。
 日豊本線、鹿児島本線は爆撃の為、不通になっていた。
 南九州防衛の兵士たちが吉松駅に鹿屋方面から約2000人集結し、駅から川内川の河原まで野宿
 をしていた状況であった。
 客車2両・貨車8両、2台のD51機関車で登り切れず立ち往生、列車は後退をして飛び降りた人を
巻き込み、56名が死亡、
 戦死しなかったが事故で亡くなり、故郷を前にした兵士はかわいそうであった。
 現場に慰霊碑あり、毎年この日にえびの市の真幸寺で慰霊祭がある。
 55名が復員兵、1人が民間人。吉松駅には住所、氏名、階級までわかる名簿が残っている。
 原因  駅員の制止にもかかわらず定員オーバーとなる。
      トンネル内の漏水による機関車動輪の空転、火災と勘違いした乗客が
      降車した、S字カーブで出口が見えない、車内放送なども無い等と言われています。
      前方の人吉機関区所属機関車はトンネルを出ていた、後車の吉松機関区所属機関車は
      トンネルの中、 機関士も意識もうろう状態であった。       
 
跨線橋柱
 
 
 駅、横の記念碑には「工部省」のマークがあり、当時の跨線橋の柱には「鉄道院」「川崎造船」
 明治45年製造の文字があります。
 (川崎造船は現在の川崎重工であり、オートバイ、戦艦、潜水艇、機関車など製造した会社である。
動態保存の機関車
 機関区OBさん達が清掃、注油などして保存活動しています。
 このC55 52機関車が現役の頃、鉄道フアンの人が機関車の前で結婚式を挙げられています。
汽笛を鳴らすコンプレッサー
 現役中のC5552と機関区、右は炭台
 
 
近代化遺産
 開通までは幾多の困難な工事がありましたが、当時の最高峰の技術や、先人の知恵で乗り越えて
 きました。
 鉄道技術、橋梁技術、土木技術は当時の最高技術は今もなお使用されています。
 石作りの燃料庫、用水用暗渠などです。
 暗渠は栗野駅で見学できます。

 転車台は阿蘇鉄道で「あそボーイ号」で転出、活躍中。給水塔、機関区車庫は取り壊しされた。
 
 
機関区の余談
 遅い時間に乗務した機関手から、列車にイノシシが轢れたと聞くと、非番の人が猪を拾いに行き、
 その後しし鍋で宴会をした。
 近頃は鹿が多いが、鹿鍋をしたとは聞かないです。
 月に2回の給料日があり、1日・15日には、若い職員さんの所に居酒屋の女性たちが、集金に
 大勢集ったそうです。
 機関手さん達は諸手当が多く、他の職員さんより恵まれていたそうです。
雑学
 昭和7年都城・隼人間が開通すると、隼人駅から鹿児島は日豊本線となった。
 この為、肥後と薩摩の間を結ぶ肥薩線は、大隅の国と肥後の国を結ぶ線になったが、路線名は
 そのまま「肥薩線」です。
 
 真幸駅の幸せの鐘は、当時どこの駅にもあった貨物積み下ろしで、職員の集合を求める鐘である。
 栗野駅のホームにも有ります。
 栗野駅の鐘
 「吉松の三度びっくい」と言う言葉があります。町を訪れた人が当時感じた事です。 
  [駅が大きい・町が小さい・吉松橋が大きくて立派]
 
昭和7年完成、川内の太平橋に次ぐ物でした。
 
吉松駅
 鹿児島本線、日豊本線の分岐駅で栄えた。
 吉松は鉄道の町で、昭和35年当時人口8000人の内484人の職員、家族を含めると約2500人
 が鉄道関係者で、それは人口の32%にもなりました。
 開通当時、全国で村に機関庫があるのは吉松だけであった。
 非番、休みの日は稲を育て、子供を学校にも出したが、普通の家庭はてさげカバン、国鉄職員の
 家庭はランドセルであり、他の町より子供を上級学校まで出せ、裕福であった。
 分岐駅で有った為、車掌区、機関区、客貨車区、保線区、建築区、信号通信区、電力区、公安職員
、診療所、購買所もあった。
 
 
昭和9年頃の吉松駅構内
 機関区の今昔
 
 
おおよど号
 
吉松駅とえびの号
 
 
吉松駅とはやぶさ
 
はやとの風とたまり売店
 
雪と田の神と吉都線
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 H25年4月23日 吉松駅で珍しい列車に出会いました。
 
 113日、芝桜まつりが駅、4番ホームでありました。
 

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