矢岳第一トンネル |
全長2096メートル・当時九州で2番目の長さであり、矢岳側の高い方から工事を始めた。
(通常海底トンネルを除き、両側から堀り、真中を一番高くして、水が両側に流れ出るように
工事をするが、あまりにも高低差が大きく そんな余裕はなく、高地である上側から掘り続けた。)
湧水と落盤の難工事で、湧水でトンネルが水没するので発電所まで作り、排水モーターポンプを
設置、レンガ工場まで作った。 青函トンネルの開通と同じ、世紀の開通とも言われている。
25パーミルの勾配トンネル、殉職者14名。
工事人不足で、朝鮮人や中国人の労働者を使役した暗い歴史もあります。
肥薩線の最大勾配は30.3パーミルであったが、この距離は短い。
(パーミルとは、鉄道用語 1000メートル進む中の上下勾配を表す、
ここでは30.3メートルの勾配である。) |
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いさぶろう、しんぺい号の名前の由来 |
矢岳第一トンネルの人吉寄り(下り線)の入り口に逓信大臣 山縣伊三郎の筆による
「天険若夷(てんけんじゃくい)」、 「天険、夷(い)の若(ごと)し」
(肥薩の険しい難所を平地のようにした)。
吉松寄りの(上り線)入り口に、鉄道院総裁 後藤新平の筆による「引重致遠(いんじゅうちえん)」
の額が掲げられたことから 「重きを引きいて遠きに致(ち)す」
(重い物を引いて遠くへ運ぶことが出来る)。
山縣伊三郎の書いた額に向かって走る列車(人吉から吉松方面)を「いさぶろう号」、逆に後藤の
書いた額のほうに向かって 走る列車(吉松から人吉方面)を「しんぺい号」と名づけたそうです。
トンネルに石額のある例は、もう1ヶ所ありました
鹿児島市の「城山トンネル」です。鹿児島側が西郷さんの「敬天愛人」と鹿児島中央駅側が
大久保利通の「為政清明」
(意味は政治をするには、潔白で隠し事があってはいけない)の文字が刻まれています。。 |
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大畑(おこば)駅のスイッチバックとループ線 |
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真幸駅のスイッチバック |
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日本三大車窓 |
国鉄が決めた3ヶ所中の1ヶ所です。 |
長野県と北海道であるが、北海道は廃線となっています。 |
加久藤カルデラと霧島連山が広がり、遠く桜島が見える時もあります。
現場に列車が停車し、線路わきに案内板があります。 |
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山神第2トンネルの悲劇 |
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S字カーブの25パーミル勾配トンネルである。 |
事故は昭和20年8月22日に発生した。8月28日には、関門トンネル封鎖の流言飛語が飛び交い
混乱した状況であった。 |
日豊本線、鹿児島本線は爆撃の為、不通になっていた。 |
南九州防衛の兵士たちが吉松駅に鹿屋方面から約2000人集結し、駅から川内川の河原まで野宿
をしていた状況であった。 |
客車2両・貨車8両、2台のD51機関車で登り切れず立ち往生、列車は後退をして飛び降りた人を
巻き込み、56名が死亡、 |
戦死しなかったが事故で亡くなり、故郷を前にした兵士はかわいそうであった。 |
現場に慰霊碑あり、毎年この日にえびの市の真幸寺で慰霊祭がある。 |
55名が復員兵、1人が民間人。吉松駅には住所、氏名、階級までわかる名簿が残っている。 |
原因 駅員の制止にもかかわらず定員オーバーとなる。
トンネル内の漏水による機関車動輪の空転、火災と勘違いした乗客が |
降車した、S字カーブで出口が見えない、車内放送なども無い等と言われています。
前方の人吉機関区所属機関車はトンネルを出ていた、後車の吉松機関区所属機関車は
トンネルの中、 機関士も意識もうろう状態であった。 |
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跨線橋柱 |
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駅、横の記念碑には「工部省」のマークがあり、当時の跨線橋の柱には「鉄道院」「川崎造船」
明治45年製造の文字があります。 |
(川崎造船は現在の川崎重工であり、オートバイ、戦艦、潜水艇、機関車など製造した会社である。 |
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動態保存の機関車
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機関区OBさん達が清掃、注油などして保存活動しています。 |
このC55 52機関車が現役の頃、鉄道フアンの人が機関車の前で結婚式を挙げられています。 |
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汽笛を鳴らすコンプレッサー |
現役中のC5552と機関区、右は炭台 |
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近代化遺産 |
開通までは幾多の困難な工事がありましたが、当時の最高峰の技術や、先人の知恵で乗り越えて
きました。 |
鉄道技術、橋梁技術、土木技術は当時の最高技術は今もなお使用されています。 |
石作りの燃料庫、用水用暗渠などです。
暗渠は栗野駅で見学できます。
転車台は阿蘇鉄道で「あそボーイ号」で転出、活躍中。給水塔、機関区車庫は取り壊しされた。 |
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機関区の余談 |
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遅い時間に乗務した機関手から、列車にイノシシが轢れたと聞くと、非番の人が猪を拾いに行き、
その後しし鍋で宴会をした。 |
近頃は鹿が多いが、鹿鍋をしたとは聞かないです。 |
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月に2回の給料日があり、1日・15日には、若い職員さんの所に居酒屋の女性たちが、集金に
大勢集ったそうです。 |
機関手さん達は諸手当が多く、他の職員さんより恵まれていたそうです。 |
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雑学 |
昭和7年都城・隼人間が開通すると、隼人駅から鹿児島は日豊本線となった。 |
この為、肥後と薩摩の間を結ぶ肥薩線は、大隅の国と肥後の国を結ぶ線になったが、路線名は
そのまま「肥薩線」です。 |
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真幸駅の幸せの鐘は、当時どこの駅にもあった貨物積み下ろしで、職員の集合を求める鐘である。 |
栗野駅のホームにも有ります。 |
栗野駅の鐘 |
「吉松の三度びっくい」と言う言葉があります。町を訪れた人が当時感じた事です。 |
[駅が大きい・町が小さい・吉松橋が大きくて立派] |
昭和7年完成、川内の太平橋に次ぐ物でした。 |
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